そらになるこころ

緊縛師 青山夏樹のSMや緊縛に関する思いを綴るブログ。内容重めです。

Mと奴隷の違い(過去のコラム)

過去のコラムを見ると若かった分

今と少し考えが違うと言うか固く考えすぎて寛容さが足りなかったようにも思いますが根っこの考えは今とそう変わらないようです。

 

■Mと奴隷の違い (2006/05/07)
 

「M」と「奴隷」の違いは「プレイ」と「調教」の違いに繋がっているので 一気に両方書こうと思う。

 

「M」・・・プレイ・調教の相手。

「奴隷」・・私の子供、体の一部、人生の一部。私の所有物。

 

私は昔から「奴隷になりたい」というMには最初は「奴隷見習い」として訓練し、言葉・心・行動が伴ったのを認めた時(長い年月が必要)初めて「奴隷」として認める。

 

そしてその時、「奴隷契約」の儀式をする。

 

これは好きな小説の「家畜人ヤプー」の中のヤプーが主人に引き取られる時の 結婚を模した儀式を真似た、私の遊びでもある。

勿論その契約が絶対だとは思っていない。


絶対という言葉は、きっと死ぬ間際に初めて証明される言葉であって 簡単に「絶対離れません」と言われると、却って軽い気持ちに感じてしまう。

契約は、奴隷として叱られ躾けられ努力した心を褒める意味の形式上のもの。

奴隷契約があるから主人は何をしても良いなどと思ったことはない。 奴隷の心に対する御褒美だと思っている。

最近はMと奴隷の違いも深くわからない人に「奴隷見習い」と使われることが増えたので、その言葉を使うのは止めた。

 

肩書きは、人の心を不純にする。

 

誰の奴隷、どんなことをしてる人の奴隷か、ということを頭においているMやどれだけの経済力か、どういう地位か、どんな姿か、どんなプレイができるか 。
そんなことを思っているS。
彼等は本当に相手を見ていない。
必要としていない。

ファンタジーは自己完結しあっているのだ。

主従関係を結ぶ意味が無い。

 

純粋な心だけで繋がることが出来る、それが「奴隷」だと思う。
私の人生の一部となって、ずっとついて来てくれる存在。主従関係に不必要なものを求める人は 奴隷にはなれない。
自分で「そのつもりは無い」といいながら 色んなもので私を縛りつけようとする人は、奴隷にはなれない。

心を愛し、存在を愛するから
「純愛」が成立し、空気になり体の一部になれる。

 

純愛には苦しみがつきもの。胸が苦しむから、愛情の垣間見れる瞬間が甘く感じる。

甘く切ない悦びを無上のものと思える人が、奴隷になれるんだと思う。

だから、Mは世の中に何万と居ても 奴隷になれる人は稀少。

 

私にとっては、最高の美の探究者。
掛替えの無い大切な存在。

簡単に「奴隷」などと言って欲しくない。

言葉は深い意味を持つ。

奴隷になることは、苦しいこと。

それを真剣に頑張っている者と「奴隷」という言葉のファンタジーに酔う者を 一緒にしないで欲しいと思う。

 

パートタイムでMを楽しむことが悪いことではない。 それは恥じることではなく、その人の選ぶ自分の生き方。

MならMと言えばいい。
虚栄心で「奴隷」というのは嫌。

奴隷は、1人の所有者に所有されていることを示す言葉であることを理解して欲しい。

自分で自分に首輪をつけて、どこにも引いてくれる人が無い時は まだ奴隷にはなれていないMだと言えばいい。

奴隷になる必要性を感じない人は、そう言えばいい。

結婚したい人と独身で生きたい人の違いは明確にされることが多い。
Mと奴隷も、その違いと同じで明確にさせることは悪いことではないと思う。

 

人それぞれ価値観が違い、価値観の合う者同士が寄り添うものだから。


素直な心が、Sに伝わる。
純粋であれば、きっと深く愛されるから。

SMの世界に来た時ぐらいは、言葉で装うのは止めて欲しい。