そらになるこころ

緊縛師 青山夏樹のSMや緊縛に関する思いを綴るブログ。内容重めです。

最近の私と自分の生き方について。

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ちょこちょこ

SM業界に戻らないかと聞かれることがあります。

その度「戻るつもりは一切ない」と答えます。

 

それでも伝わらない時は、今の自分を率直に伝えるようにしています。

プレイヤーを引退してSM業界から離れて(緊縛師としては自分の技術を必要として下さる方で自分が納得出来る仕事だけを受けますが基本的には自分が縛りたいように自由に縛る、表現者としての活動にしようと決めました。

 

自分で自分を制限しない生き方を、そろそろしてもいいなと思えたので。

 

誰かをただ待って自分の時間を無駄にするのも止めました。

誰かのことを考え過ぎて自分がしんどくなるような人付き合いもやめました。

 

私は自分らしく生きる道を選択して

誰の顔色も伺わず

誰かに期待し過ぎず

自分の好きなように自分の残りの時間を使うことにしました。

 

それにはお金も大きく関係してきます。

お金について
世の中には高級外車に数千万円を遣って満足を得る人

貯金額に安堵感を求める人

全てを手放してお金と関わりの無い暮らしを求める人

沢山の価値観があると思います。

 


私はこの先の自分の人生を考えた時

働かず貯金を少しずつ遣って

好きな所に旅をしたり

美味しいものを食べたり

お酒を飲んだりして過ごすのもいいかな

と言う考えも浮かびました。

 

でも、

きっとそんな自由に思える暮らしに自分は数年で飽きるだろうと思いました。

いつまでも何かに情熱を燃やしていたいし、チャレンジしていたいし、何より働くことが好きです。

 


今の店は自己資金で4000万円かけました。

(ずっと言うつもりはなかったのですが敢えて投資額を言うのは私の覚悟を伝えるためです。)

それを早く回収しなくては、とか

元手に金を増やしてやろうとか、ただの経営者になりたい、そんな気持ち言うより

自分の居場所・働く場所を造りたかったのです。

 

だから毎日朝から終電間際まで店に立って働いています。


飲食業の家で育って、小さい頃から親の言葉を聞き、会社の手伝いをしてきたので

飲食で働くのが心地良いです。

笑顔になってもらえたり、くつろいでくださる姿を見ることが幸せに思います。

天国にいる、親不孝ばかりしてしまった両親と両親が与えてくれた知恵を自分の店で活かせることに喜びを感じています。

 


自分の体を使って働いて、直接お客様の笑顔に触れる喜びを持てて幸せです。

 


そんな訳でいつも店にいます。(時々どうしようもない用事で抜ける日はありますが)

 


以上、最近の私についてでした。

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※夢中で洗い物をしてて頭に布巾が載ってるのを気付いてなかったのが面白かったらしく盗撮されていました。酷い😢

 

2022年 1/30 「F」 閉会のご挨拶

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本日は困難な状況にも関わらず沢山の方にお越し頂き本当にありがとうございました。

イベント開催を決めてから日増しに厳しくなる状況にイベントの中止も悩みました。
今日集まって下さった皆さんにとっても、このイベントに参加することは覚悟が必要だったことと思います。

私たち緊縛師は、
信じて身体を預けて縄を受けてくれるモデルさんが居なくては表現できません。
そして観て下さる皆さんがいなければイベントをすることも出来ません。
改めて、心からの感謝を二人のモデルとご来場くださった皆さんにお伝えしたいと思います。
本当にありがとうございます。

今回はセックスワーカーとして、SMショーとして最後の舞台になりました。

このスタジオで17年の間、多くの作品を撮影して来ました。
一本鞭と言うとても思い入れの強い作品もそうです。
そんなSMの為の場所で、セックスワーカーとして最後のSMショーをさせて頂きました。
このスタジオでショーをやるのはこれが最後です。

けれど
緊縛ショー自体は何かの形で一生続けていくつもりです。

日本人が古来より神と人を繋ぐ依り代として大切にしてきた、心を繋ぐ力を持つ大麻縄を使って人と人の心の対話を表現するものとして緊縛ショーを形にしていきたいと思っています。

緊縛=エロという先入観からどうやって切り離していくかはこれからの課題です。

 

日本人が大切にして来た一人一人の命に対して敬意を払う事、
人を壊すことを知る上で人を守ることも研究してきたこと、
その考えが生きているのが逮捕術である捕縄術です。
私は色事師としての縛りには興味がありません。

人を守り心にこべりついた負の感情を克服する為の挑戦をサポートする緊縛を、一つの道として形にしていきたいと思っています。

 

私の敬愛する能楽の大家である世阿弥は様々なものを花と表現しました。
ある時は生き方。
ある時は人を花と言いました。
芸を花と言いました。
人の心の真実も花と言いました。
その言葉は私の人生を貫く軸になっています。
それを踏まえて、私の吊りの形は全て花の名前を付けています。

縄を受けてくれる人が花として咲いて欲しい。
自分自身が価値ある花だと知って欲しい。
そんな思いからです。

辛いことから逃げず厳しい吊りを受けているその瞬間、自分に自信がなかった受け手は自分も気づかぬうち立派な花を咲かせています。

小さな花、地味な花、華やかな花、大きな花、色んな花があります。
花はそれだけで素晴らしいのだと思います。
色とりどりの、それぞれの花(人生)を自由に自信を持って思い切り咲かせて欲しいです。
野辺に生きる花のように強く健気に、可憐に生きていくことはきっと出来ると信じています。
心に花を持ち続けるなら。

縄を受ける人たちが緊縛を通して自分自身が花であると感じてもらえれば幸せです。

そしてその花が開く様子を観て下さる方の中にも
小さな種が落ち変化への芽吹きに繋がれば幸せです。

これからも、苦しみを抱えて生きている方が求めてくれる時はその方たちが自分と向き合って自分を赦して受け入れていくお手伝いが出来たらと思っています。

誰が見てもエロだとは言わせない表現を完成させていきます。
どうか見守ってやってください。

そしてもう1つ。

私自身、約30年セックスワーカーとして社会の影の世界に生きてきました。
そこは社会的信用もなく社会的地位も低く差別の中で生きる世界でした。
性を換金する世界には華やかに見える部分の裏に悲惨な影の部分があります。

人に買われることを選択したことに伴う地獄が待っている恐ろしい世界でもあります。

その暗い泥沼の中で正気を保つことすら難しく、
自尊心や優しさや未来への希望もすり減らし悲惨な結末へ向かう様子を沢山見てきました。

SMは自分の性癖ですが、それを売り物にすることは心をすり減らすことでもあります。

この世界に一度足を踏み入れると、欲望と情念に満ちた泥沼から抜け出すことはとても困難です。
昔の遊郭の足抜けが難しかったように今でも
綺麗な形で、良い部分だけ得て適当な時に日向の世界に戻ろうということはとても困難です。辞めては戻り辞めては戻りを繰り返すうちに歳をとり他で潰しの効かない歳になり商品価値が下がり続けるまま性を換金する世界にしがみつく事しかできない人は多いのが現実です。

私自身セックスワーカーを辞めることが難しく長い年月が掛かりました。
20代で離婚し経済的理由で娘と引き離され、無一文で一人になり、娘を取り戻す為に人生を建て直そうとしました。
一度ドロップアウトした人間には過酷な現実しか待っていませんでした。

私にはSMしかなかった。

セックスワーカーとして働くしかないけれど、後に子供が私の仕事を知って自分を恥じるような親にならないように仕事を選びました。稼げず食うに困るような時も絶対に裸にならず身体を売らず踏ん張りました。やるならとことん極めてSMでてっぺんを取ってやろうと必死にやって来ました。
職業に貴賎なしを実践する思いで。
それから20年経って娘たちにも私の仕事を知ってもらい、誇らしく思ってもらえる程とことんやり抜いたと思っています。

だけど、一生このままではいけないと思っていました。
娘の人生、私の姿を追いかけてくれる後輩の為、慕って支えてくれたMの為にも。

一度足を踏み入れたアダルト業界を抜けることは、とても難しいです。

ですから今回背水の陣を敷く覚悟で、不退転の決意で前に進もうと区切りを付けました。

誰かの心の拠り所として、人生をサポートする並走者でありたい。
今までは性の世界だけでしか出来ませんでしたが、セックスワーカーを引退した後は
年齢性別社会的地位などの壁を取り払って
必要として下さる方が心を解放できる安全基地を作って行きたいと思います。

これからはお日様の下、表の世界で闘っていきます。

性を換金する世界で長期的な未来を見失っている方たちが、勇気を持って
希望を持って未来を描いてみたいと思えるような
お日様の下に戻る道を照らす灯りを灯していけたらと思います。

そんな挑戦を見ていて下さい。

いつかどこかで、何かの形で、またお会いしましょう。

今日は本当にありがとうございました!

初めてのクリスマスプレゼント。

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もうじき80になるじいさん奴隷とは

出会って来年で10年になる。

 

今まで私の誕生日とクリスマスには身につけるものを

贈ってくれた。

 

私のハイヒールは今年買ったもの以外

ほぼじいさん奴隷と一緒にデパートに行って試着を見てプレゼントしてくれたものだ。

 

じいさんは文字通り私をひたむきに、一途に支え続けてくれる私の1部のような存在。

ビデオに一緒に出たこともあるし、プレイしていた時代もある。プレイをしなくなってからも関係は何も変わらない。

私が思う主従関係を体現してくれる奴隷。

 

最近は私の溺愛する愛犬の子守り役を頑張ってくれていて、暑い日も寒い日も天気の悪い日も変わらず散歩に連れて行ってくれる。

 

少し前、

じいさん奴隷が階段を踏み外して転んだと言う。無理をさせてるのか心配している時に靴を見たら足首の安定が悪そうな靴を履いているのに気付いた。

 

それで靴をあげようと思っていたのだけど

買いに行く時間が作れなくて

サプライズにもならなかったけど一緒に靴屋に行って

じいさんの試着を見ながら、歩きやすく転びにくく雨にも強い靴を選んだ。

 

これまでの逆だね(笑)

 

私がレジでお金を払って履いて行きますと店員さんに告げて振り返るとキョトンとした顔で椅子に座るじいさん。

 

照れくさくてぶっきらぼうに「クリスマスだから。」

と言ったけど、もう少しかっこつけて渡したかったんだよ😅

 

これからもたんちゃんのお散歩頼むよ。

 

そして、私のためにまだまだ生きてよね!

引き続き、命令だよ。

 

 

SMで得た最大のものとこれからのこと。

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21歳からSMの仕事を始め、30年経ちました。

 

自分が生まれた意味も感じられず、生きる目的も持たない人間が

SMに出会い自分の居場所を見つけました。

人を愛する事、人を憎むことを知りました。

そして

長い年月をかけて私のSMから学んだ最大のものは

「赦すこと」でした。

 

 

自分を否定し、自分を憎んで、孤独の中刹那的に生きる。

そんな虚しい生き方しか知らなかった人生でしたが、SMを通して人/Mとの関り合いの中で赦すことの持つ力を知りました。

 

人を赦すこと、自分を赦すこと。

それはあるがままを受け入れることではないでしょうか。

 

SMという仕事は誰にも言えないような恥ずかしい願望を叶えにプロを求めてくれる人たちに「それでいいんだ」と言い続ける仕事だと感じています。

 

日常で自分のペースで上手く呼吸が出来ず肩で息をしながら必死で生きている人はとても多いです。

その中で、ダメでも誰にも必要とされていないと感じてもそのままのめちゃくちゃな自分で良いんだと受け止めてくれる人や場所があることは生きる勇気になったりします。

それが「赦す」ということなのだと、年々強く感じるようになりました。

 

私からMの人生に介入していくことはありませんが、求めてくれる時はいつでも帰ってこられる港のような距離感で多くの人たちと関わってきました。

Mにとって苦しくなったらエネルギーを補給する場所、赦される場所で居続けたいと願いながら。

 

 

昨年50歳という年齢を迎えてみてふと気づきました。

 

私は自分の為に生きているのかと。

 

人を赦すことで自分が赦されることばかり考えていたのかもしれません。

誰かに必要とされることで生きて来た結果、本当に自分らしく生きるこの先の道を見失いかけていました。

それすら気づかない程に、セックスワーカーという囲いの中でだけ自分の生き甲斐や存在意義を見出そうと視野が狭くなっていたのかもしれません。

それに気づかせてくれた人には感謝しかありません。

 

一度、自分がやっていることを見つめなおすことにしました。

 

すると

好きで大事に続けていたことの中には

「頑張りたい、けど」

「好き、だけど」

と言うように、「けど」が付くものがいくつもあることに気づきました。

じゃあなんでやってるの?

そう聞かれると、大義名分ばかりが口をついて出て「I want」だけが理由では無いものが多いのです。

単純に自分の望むもの、自分主導で動くことを忘れていました。

幸せは主体的なものの筈なのに。

いつの間にか立場的な責任感や義務感、苦労した時間の分生まれた仕事への執着心、誰かが寂しがる、悲しむ、そんなことから動くことの方が多いことに気づかされました。

やりたくないプレイ、やりたくないショーも全部誰かの為という理由でやっていたりもしました。

SMは好き。だけど・・・と言うような理屈がついてくるものだったのだと思います。

 

シンプルに生きているつもりだったのに。

シンプルに生きたいのに。

本来の自分に戻って人生を描いてみたい。

 

 

じゃあ、私が本当にやりたいことは何か。

 

本当にやりたいことしかやらない人生を選んでみても良いのではないかと、50年という節目を迎えてやっと自分のワガママではなく自由に生きてみたいという子供のようなシンプルな思いに変わりました。

 

セックスワーカーであることが足枷になっていたことも含め、全てから自由になってもう一度自分の人生を見つめなおしてみたい。

 

やりたかったけど出来なかったこと

やる前から諦めたこと

途中で放り出してしまったことを日々、明日死ぬつもりで1つ1つやってみようと思い始めました。

 

そして、今年の12月でSMクラブを閉めてプレイヤーとしても引退することを決めました。

 

自分が人生を変えてもらった大切なSMの世界を、美しいまま未来に渡したくて頑張っていたこともそれを望む人が現れないなら只の私の願望の押し付けでしかないと思いますし

私の考える古き良きSMでは飯が食えない時代なら、そこに必死に食らいついて一人前になる人材も残らないのだと感じています。

そういう訳で、後進の育成のためにと作ったSMクラブは無理に存続させる理由もなく、いつまでも私が現役でプレイする理由も残っていませんでした。

 

セックスワーカーを完全に辞めると言う決断をしてみると、不安が襲ってきました。

いつも誰かに求められることが収入にも反映されて来たので誰かに求められることをしなくても良い生活が想像できませんでした。

仕事の為にやっているSNSの更新は苦痛でもなんでもなく生活の一部になっていますし、Mの人たちとコミュニケーションを取ることも無意識のうちに反応するぐらい体に沁みついています。

性にまみれた人生を送って来た自分がその世界から出て、生きていけるのだろうか。

これは金銭面の不安ではなく、精神的な部分の漠然とした不安です。

 

性で繋がることだけが真実のように生きて来た自分がセックスワーカーを卒業すると言うことがどう自分に影響を及ぼすのか、今はまだわかりません。

 

考えれば不安は尽きません。

 

でも、退路を断って前に進むことを選びました。

 

今日死ぬか明日死ぬかもわからない。

ならば、前のめりに倒れて口元に笑みをたたえて死にたいと思います。

 

 

これから、性とは違うコミュニケーションの世界にはなりますが

何かの形で皆さんとまた関わることが出来れば嬉しいです。

 

人生100年だとすれば、ほんの一時の花を換金する道を選んでいる夜職やセックスワーカーの方たちが未来を描こうと思った時の、セカンドキャリアを拓く時の、希望に繋がれば...この挑戦が本当の意味を持つ気がします。

 

とにかく、頑張ります。

 

その様子は失敗も成功も、皆さんにお見せできたらと思います。

Chosen family

最近、見えて来た答えがある。

私の求めるSMについて。

 

今まで男女性別を問わず沢山の人とSMをして来た。

お金で買われるプレイ。

プライベートでの関係。

ショーでのSM。

 

SとMの関係は

何が正解なのか。

人それぞれ想いも背景も違うから

共通の正解なんて存在しないことはわかってる。

 

だけど辿り着きたかった答えがあった。

 

それは自分の在るべき存在、関係性のカタチ。

 

 

私は1人のMのものにはなれない。

友達でもない。

恋人にもならない。

Mの為に生きられない。

 

でも

 

いつも変わらない姿勢で

あなたを見て

時には叱り

時には突き放し

心が壊れそうになったら

暖かさを求めて帰ってこられる

安全基地になれる。

 

長年自分の求めるSMが叶わず

悩んでいたと言うNと話をして、

ショーの選曲をしながら

好きな曲の歌詞が重なって行くことに気付いた。

 

君の話しを聞かせて。

そこからSMが始まる。

荷物を置いて、もう大丈夫だよ。

君の居場所(SM)はここにあるよ。

おかえり。

ここまでの孤独な旅は長かったね。

でも、もういいんだよ。

 

恋愛やセックスの延長線上にあるSMをしたいんじゃない。

私はその人がその人であることを赦せるための

安全基地になるSMをしているんだ。

 

じゃあこの想いに

この関係に名前をつけるなら何だ?

 

 

Chosen family。

そう感じた。

 

あなたが私を選び、私があなたを選んだ

選ばれた家族なんだ。

 

それが

触れたかった答え。

 

あなたが私を必要としてくれる限り

私は変わらず受け入れる。

 

私の家族として。

 

SMが無いとバランスを取れない

不器用な生き方しか出来ない同士。

 

あなた(M)は私の、私が選んだ家族。

あなたが私を選んでくれたから。

 

https://youtu.be/g9Zvss8FxCw

師資相承

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私が緊縛を教える時

 

イメージしているものがある。

 

それは道のようなもので

 

遠く険しいけもの道を進んで見晴らしの良い

 

高台に案内するガイドのようでもある。

 

 

まず

 

縛りを習いたい人の人柄や目的をじっくりと

 

見極める。

 

次にその人が目指したいモノを聞く。

 

そこから、その人に合わせたルートを考える。

 

頭の中で大きな地図と言うか

 

設計図を描く。

 

 

ある人にとっては縛りに興味があるけど

 

SMはわからない。

 

そんな時は

 

基礎を教えながら、相手をケアすることを伝え

 

ケアする事から相手への優しさ

 

相手の気持ち

 

ひいては愛情表現を伝える。

 

そして技術。

 

この部分は時計や建物を造る工程に例えると

 

イメージしてもらいやすいかと思う。

 

 

まず、

 

徹底的に基礎を繰り返し教える。

 

縄の性質、縛りに用いるテクニック

 

トラブルが起こるかもしれないポイント

 

危険を予測出来る知識などを繰り返す。

 

この段階はきっと退屈で「緊縛やったるで」

 

と言う気持ちで来た人にとっては期待はずれかもしれない。

 

カッコいい時計を作りたいのに

 

小さなボルトとワッシャーを組み合わせる作業ばかりやらされるようなもの。

 

単純作業繰り返し。

 

だけど、単純作業がなかなか同じ調子で出来ない。

 

この段階の長さは人によって変わるけれど

 

この段階で離れて行く人は

 

私がふるいにかけているのだ。

 

そのパーツ作りの単純作業を大切に出来る人にしか

 

自分の血肉を注いだ縛りを教えたくはない。

 

 

ある程度の基礎が出来るようになってくると

 

少しハードルを上げる。

 

これは飽きて心が折れないためでもある。

 

また縛りが楽しくなるような

 

新しい課題を出す。

 

そこでわかった気になる人は

 

また一段階別のふるいにかけられる。

 

 

吊りは私の縛りにとっての奥義だから

 

簡単にはそこへ辿り着かない。

 

心が欠けた人に凶器は渡せないからだ。

 

 

そうした段階を経て

 

実際に厳しい縛りを伝えていく。

 

 

最初は「縛り方」「ケア」に終始する。

 

作業を掴んだら

 

小さなパーツを組み合わせていく作業は終わり

 

時計の歯車は動くようになる。

 

 

そして、作品に魂を吹き込むような

 

肉付けの段階。

 

ここには心が大きく関わる。

 

SなのかMなのかを超えて

 

相手を大切に守る気持ち

 

感謝する気持ち...

 

そんな暖かい愛で肉付けする。

 

触れる手

 

優しい眼差し

 

愛情表現は色んな形がある。

 

残酷な行為を暖かい愛情表現が包む。

 

 

そこで縛りは行為やモノを離れて

 

心を繋ぐ依代になる。

 

昔の日本人が麻縄に込めた願いと

 

重なっていく。

 

 

最後に

 

ショーであれば観客の目を考えた色付けをする。

 

主観から客観へ視点が移って

 

特殊な愛情表現が立体的になる。

 

離見の見。

 

 

そして...

 

このカフェの冷房で体が冷えきったので

 

今日のところは一旦ここまで。

 

また8/29のショーが終わった後に

 

緊縛を教える事について

 

書いてみたいと思います。

 

長々読んで下さってありがとうございます。

 

 

 

 

 

2005年 8/9の日記から

少し・・・。[08.09.Tue]

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少し、気持ちも落ち着いてきました。
あの日から全然何にも手に付かなくて
ふさぎこんじゃったけど、元気出てきた。

トラブルからの心の苦しみは・・・
ある意味自分の中で、マイナスだけじゃなくて
プラスの面もたくさんあったんじゃないかと思いました。(抽象的でごめんなさい)

苦しい問題があったからなのかな、
ぼんやり、世の中で何が一番幸せなことかなぁって
考えました。

やりがいのある仕事ができること

人から認められること
大好きな人と居られること
美味しいものを食べること・・・
色んなことがあると思うけど・・・

もしかしたら、一番幸せだと思えることって
性癖がぴったり合う人とパートナーになれるってこと
なんじゃないかって思った。
こういう考えは初めてだった。
よ~く考えてみると、自分の一番秘密の部分で
一番本当の自分である部分を理解してもらって
分かち合えるって言うことは、実はこの世の中で
なかなか無いことなんじゃないかな。

すごく性格も合って
趣味も合って、一緒に居て楽しくて
セックスもそこそこ気持ちいい。
けど、本当の自分の奥底に隠れた性癖までは言えない。
そういうこと、多いと思う。

それから一歩進んで、
恋人としてすごく楽しくて大好き

性癖についても、言える所までは言って
理解してもらえた。
けど、本当の部分はやっぱり言えない。(もしかしたら自分も気付いてなかったり)
理解はしてもらえるけど共有は無理。
理解してもらって、性癖の部分は別のパートナーと楽しむ。

今までずっと↑の状態が、幸せかなと思ってた。
でも・・・
小さい頃からの自分の性癖を、ず~っと正直にたどってみると・・・
本当の自分はやっぱり今までもずっと自分だけの中でしかどうすることもできなかった。

そして本当の意味で理解してもらえたり
理解するだけじゃなくて、一緒に喜んだり分かち合ったりって、なかった。

だから・・・・
奇麗事抜きで言っちゃうと
中々出会えない、性癖がぴったり一致するパートナーと
出会えるってことは
もしかしたら、世の中で(性的に屈折した人の中)

一番幸せなことなのかもしれないなぁって
ぼんやり思ったのでした。

私の根っこにある性癖?
どんなだと思います?
SとかMとかいう部分とは別の、それに繋がる?
どうしようもない性癖があるんです。(笑)

私も自分の性癖に悩んでる一人だったりします。

こういう隠れた部分があるから
SMが楽しいのかなっ?