■禁止と許可の動機 (2007/04/15)
主従のロールの中でよくあることに、「躾ける」ということがあります。
自分のM、もしくは自分の奴隷を教育していくことが主人と奴隷の信頼関係を築いたり、互いの絆を撚っていく過程にもなります。
いたずらにする「禁止」には意味があるのでしょうか。
意味のある禁止はお互いの心に確実に残る「層」を作ります。それが重なっていき、厚みのあるパートナーシップが形作られていきます。
最近あるM男くんからメッセージをもらいました。
御主人様からオナニーを禁止されているけれど、苦しくてどのようにして自分の性欲に勝てば良いのか悩んでいるという内容。
以前は私も目くじら立てて「オナニー禁止」
性欲ではなく精神面で繋がりたいのよ!
そんな自分の理想論をびっしり奴隷に強要していました。
今考えればそれも子供みたいな私の我侭をMに受け止めてもらってたんだなぁって思います。
今はオナニー禁止を命じる役割ですが
昔、クリスチャンの生活をしていた頃私もオナニーを絶つことと闘った時期がありました。
最初の頃は本当に苦しかった・・・。
最初の頃は、動機がきちんとしていなくてただ闇雲に戒律を守ろうと言う考えだったと思うので本当に辛く感じました。
誰だって肉の欲望に目をやれば、体に火が付きます。
でも、
どうして禁欲するのかの、キチンとした動機付けがあればその動機と自分の思いを照らし合わせながら、心を平穏に保つことが出来ることを学ぶことが出来ました。
もちろん年に何度か失敗して、一人ベッドの下に跪いて懺悔をするという恥ずかしい思い出もありますが・・。
自分の肉体の欲望に純粋な動機で打ち勝った時の喜びは本当に心を爽やかにしますし、何より「愛」を体に補給出きるような充足感を得られます。
無償の愛、純粋な人を想う気持ちに動かされた時ほど人が幸せな気持ちになれることは無いと思います。
勿論動機が必要なのは禁止されて、言いつけを守る側だけではありません。
禁止を命じる主人側も、何故禁止したいのか。
禁止したことを「言いつけどおり」守った所でMに何が得られるのか。
自分は相手に何を求めているのか。
規制する側がその意味を考えず意味がわかっていない時ほど奴隷は苦しみます。
形だけの命令ではなく心が望んで自然にしたがいたくなる「見えない鎖」「見えない縄」で拘束することが出きるのが本当の「支配」だと思います。
支配は、支配される者の心を軽くしてあげるべきものです。
虐げるだけではなく、心の平安がなければ本当の意味で相手の心を支配したとは言えないと思います。
言葉で雁字搦めに制約するより
「自由意志」で従う、それが一番強い絆で
それが本当に服従するということです。
ここで実際にあった話を。
ある日。
「オナニーしても良いでしょうか?」
「お前はどうしたいの?」
「女王様がするなと言われるなら、良いと言われるまで我慢します」
「お前がそれで私に誠意を示したいならそうしなさい。」
「はい。」
(性欲管理されるというファンタジーの為に自分からオナニー禁止を言い出す奴隷。笑)
数週間後。
「苦しいです、どうにかなってしまいそうです!」
「じゃあ、ブーツを貸してやるから楽しみなさい。まぁ、オナニーした所で逆に寂しい気持ちになるよ(笑)。ちゃんと報告してね。」
「ありがとうございます!」(←ブーツの匂いでオナニーすることで頭がいっぱい)
後日。
「どうだった?ブーツは堪能したか?(笑)」
「・・・・・・・・。(涙)」
「終わったら嫌になったんだろ」
「・・・・・はい。もう2度とオナニーはしたくありません。すみませんでした。」
「ブーツ磨いて返しなさいよ。」
なんてことがありましたが
自分で嫌な思いを経験すると、2度とやりたくなくなるものです。
主人の命令の下でしか(笑)。
無意味に禁止したりするのは、逆に関係という互いの繋がりを無視することにもなると思うのです。
(行きずりの性欲処理の相手なら別ですが・・)
無意味な行為は「繋がり」の無いまま、
お互いが各々隔離されたファンタジーの世界で楽しむアイテムと化してしまうことになるという、裏に隠れた心の意味をすくってあげて欲しいと思います。
禁止したその後の互いの心や関係を考えた上でのルールを楽しんで欲しいと思います。(自分が逆の立場なら、嫌でしょう?)
ルールと言う言葉は、規則を意味しますが
支配を意味する言葉でもあります。
良い支配で互いの欠けた部分を補い合い、「愛」っていう接着剤で繋ぎ合わせていって欲しいです 。
そして良いパートナーシップが、たくさんのSとMの暖かい関係を生み出していくといいなって、心から願います。
最後に聖書の言葉を一つ・・・。
LOVE IS PERFECT BOND (愛は結合の完全な絆です)