「いや。あれは神じゃない。
蜘蛛の巣にかかった蝶とそっくりだ。 始めはその蝶はたしかに蝶にちがいなかった。
だが翌日、それは外見だけは蝶の羽根と胴を持ちながら、実体を失った死骸になっていく。
我々の神もこの日本では蜘蛛の巣にひっかかった蝶とそっくりに、外形と形式だけ神らしくみせながら、既に実体のない死骸になってしまった」
この日本は底のない沼沢地だといっていた。
苗はそこで根を腐らせ枯れていく。
基督教という苗もこの沼沢地では人々の気づかぬ間に枯れていったのだ。
遠藤周作「沈黙」
核心に触れるような言葉の前で胸を射抜かれ、涙が溢れた。
子供の頃からSMに魅せられSMと共に大人になり、生きて来た。
私が胸を焦がし魂を燃やし夢中になったSMというものは、既に現代では蜘蛛の巣にかかった蝶のようなものになってしまったのではないかと思った。
見た目の美しさを競い、そこに言い訳程度の「愛」という理屈をくっつける。
愛とは何か、ずっとその答えを探している。
宗教を通じて探したこと、哲学として考えたこと 人を愛し子供を愛し学んだこと
自然な本能のように湧き上がるものと、努力して筋肉を鍛えるように育て維持していく愛とがあると感じる。
SMはその愛を探す行為と同じだと思っている。
残酷に見える行為も全ては「愛」に繋がっていると。
だけど、沼沢地に植えた苗のように泥の中で根が腐ることがある。
そのことを考えた。
愛という綺麗な花が咲いたように見えても、見えない所で根から腐って行く・・・。
苗を植えるに適する土壌とは何か。
それは、人が自然に持つべき「愛」ではないか。
人を愛する事、愛を受け止める事を知らない人たちが 「愛」のようなことを形にしようとしても、しっかりとした根を張る土台がなければ、 「愛」だと思われていたものは 簡単に崩れてしまう。
砂上の城のように。
愛は愛でも「自己愛」だけではしっかりとした根を張ることはできない。
今のSMと言われるものは私が追い求めるSMとはかけ離れたものになっているのではないかと感じることが多い。
そういう感覚になることが年々増える。
今の自分の立場と想いを、異教の地に於いて活動する宣教師のようなものなのだと思えば気持ちは救われるのだろうか。
苦しむ人を救いたい活動の意味を考える。
今は、本質が欲しいのではなく
「それ」に見えるものを楽に手に入れる事が出来れば本質や実が伴わなくても良い人が多いのだろうか。
真実より、寂しさを埋めるコミュニティや他者と関わる手段が欲しいだけなのか。
色々な事を考える。
別に私が自己犠牲を払わなくても、違う世界の人たちはそれぞれ楽しんでいるのだから
私は他の人や次の世代など考えず自分の好きな事だけに専念すればいいのかもしれない。
人は人、心と体の怪我もあるでしょうが どうぞみなさん自由に楽しんで下さい。
そう、棄教した神父のように思うのが良いのか。
1人でも、求める人が居るならば その1人のために声を上げ続けるべきなのか。
悩んでいる自分にこの本の言葉は痛いほど心に突き刺さった。