そらになるこころ

緊縛師 青山夏樹のSMや緊縛に関する思いを綴るブログ。内容重めです。

痛みをコントロールする縛り

痛みには種類がある。

鞭で言えば、電気的な皮膚に走る痛み。
打撲のような筋肉や骨に響く痛み。

縛りの場面では、皮膚が引き攣れる痛み。
筋肉や骨が痛む痛み。
関節に負担が掛かる痛み。

性的に興奮できる痛みと、興奮が醒める痛みがある。

責め縄は痛くて当たり前、痛みを受け入れるもの。
それは曲解だと思う。
拷問での縛りは痛みを与えることを目的とするが、SMでの緊縛は痛みの先にあるものを目指す。
心の解放だ。

心の解放に必要な鍵は、安心させることだろう。
安心した痛み。
矛盾した言葉だが、これはつまり、完全に管理された痛みの感覚だ。
例えば、マッサージに行ったとする。
寝かされたベッドが劣化していて、ベッドの革が体に刺さるような感覚があるままマッサージを受ける。
いつもは心地よいマッサージも、小さな不快感によって快感は目減りするだろう。
不快感と、不快感に気づいてもらえない不信感。
得ようとする快感やリラックスに対して、不快感や不信感は不必要な感覚だろう。

性的に興奮できる類の痛みを、必要に応じて与える。
これが心を解放するレベルに到達するために必要だと言える。

生理的に痛い痛みは特に皮膚の引き攣れや関節の負担で起こる。
誰かの縛りを見て不快に思う時は、大抵この生理的に不快な痛みが起こっている縛りだ。
苦痛に顔を歪め脂汗を流し、額に血管を浮き上がらせるような姿に感動することがない。
鞭でも縄でも、ただの我慢大会、苦行ではSMとしての快楽を見いだせない。私は。

私の考えるSMでの苦痛は、宗教的「法悦」に近いものだと感じている。
だからこそ崇高で美しい。

その崇高な姿を見るには、苦痛の種類をコントロールする必要がある。

それに必要なテクニックは適度な「緊度」と「面圧」だろう。

指を目のようにして相手の不快を察知する。
不快に感じるポイントは人それぞれなので、マニュアル通りに工程をこなすことでは不十分だ。
常に相手を感じる洞察力こそ縛る側に必要な能力だろう。

能力と言うと難しい響きがするかもしれないけれど、人は誰かを大切に思う時
本能的に働くのが相手を自分のことのように感じる洞察力だ。
だから、1度限りの関係であれ長年のパートナーであれ
自分に体を預けてくれる相手を大切に思う事が、何よりの事故を減らすことなのだと思う。