そらになるこころ

緊縛師 青山夏樹のSMや緊縛に関する思いを綴るブログ。内容重めです。

愛という花


「私、本当は悪い子なんです。」


初めて会った日に聞いたこの言葉が

何年経ってもずっと頭に残っている。

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良い子でいる自分が嫌いだけど良い子でいたい。

良い子でいようとする自分に

息苦しさを感じているのが伝わった。


さてどうしよう。

どうやってこの子に楽に息をしてもらえるように

力になることが出来るだろうか。

この問いが何年もずっと、

私の中で繰り返されていた。

 

 


数か月前ぽつりと、

今も愛ちゃんが忘れられないんだと漏らした時

私をずっと支え続けてくれる爺さん奴隷は言った。

「そうだと思います。」

驚いた。

傍で眺めていた爺さんは

私がどれ程彼女のことが好きかを感じ取っていたらしい。

 

奴隷という存在は

本当に自分の一部のようなものだなと

柔らかい溜息が出た。

 


プロとして、人として

色んな人を支える存在でありたいと思う気持ちから

誰か1人の人に対してあまり個人的な気持ちを言葉にしてこなかった。

だけど、一度書いてみたいと思う。


私の拙い文章でも傷ついた心を持つ人が読んで

こんな愛情もあるのだと感じてくれるなら

意味があると願い。

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愛ちゃん。


私は彼女が大好きだった。

理屈抜きに。

恋愛感情というものでもなく

友としてでもなく

ビジネスパートナーしてでもなく

ただ純粋に好きだ。

いつも気を遣いすぎて疲れているような笑顔と

その合間に見え隠れする子供のような顔

そして大人びた聡明な女性の顔

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頑張って生きていることが窺われる細い手首。

可愛い三つ折りの靴下。

 

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野辺に咲く可憐な花を眺めるように

ずっと見ていたかった。

近づいたり、触れたりすれば

花はくたびれ、萎れ、弱ってしまう。

それと同じように、近づけば

良い子でいようと「頑張るスイッチ」を

入れてしまうことがわかるからショー以外では言葉も掛けずにいることがほとんどだった。

 

冷たいと感じるだろうか

寂しいと感じるだろうか

ビジネスだけの関係だと傷つかないだろうか

 

いつも気になりながらも

日常に息苦しさを感じ私の所にやってきた彼女の

頑張り屋さんスイッチを入れる事だけはしたくなくて、いつも随分離れた所から思っていた。

 

 

私からいつ連絡があるかもわからず

どんな場所に呼ばれるかも聞かず

ただ待っていてくれる

そうした彼女の無言の信頼も

私にとっては何よりの幸せだった。

 

SMの関係は

SMの時間を通して、

この世のどこかに

弱くてダメな自分を好きだと思ってくれて

どこまでも受け止め赦してくれる人と場所がある。

そんな感覚を得ることが出来れば

それだけで意味があると信じている。

 

その暖かな感覚に触れるだけで、昨日よりも少し

強くなれる。

 

野に咲く花は

そのままだから美しい。

厳しい環境で自生する本当の美。

人が人の楽しみのために手を加えることは

その花を愛でることにはならないのだと、私は思う。


野に咲く花を愛でるには

時折足を止めて枯れないように見守りながら

自分の力を取り戻し、

自分の意志で花を咲かせて欲しいと

願うだけで良いのではないだろうか。

 


普段何をしているか私からは聞かず、

知ろうともせず

ただ必要としてくれる時を待って、

自分のもとに現れたら精いっぱい抱きしめる。

それが

この普通ではない世界に相応しい愛し方だと思う。


日常に傷ついて、


人に疲れて、


臆病になっても

 

人は本能的に愛を求める。

 

その本能が後天的な傷で歪められ

愛の求め方が

世間から理解されにくいものであっても

誰もが無償の愛という夢のようなものを

無意識に求め続ける。

 

SMの関係では、その無償の愛を

極端な形で表現する。

 

無償の愛など本当は存在しない夢幻のようなものだと考えていたとしても人はどこかで信じている。

 

どこかに存在する失われた宝のように

「無償の愛があるといいな、あって欲しい」

と願い手を伸ばしては落胆することも多い。

 


そんな中

SMで表現される常識を超えた愛は

常識的な愛の方程式を否定し存在する。

 

それはある意味で無償の愛、

理屈抜きの愛の証明にもなるかもしれない。

 

だからSMでの愛は

パートナーの日常に介入することなく、


性的な体のつながりも超越し

いつも愛していることを表現できる。

日常に介入しないことで、

愛を純粋に保つこともできる。

 

触れたいのに、

触れることが出来るのに

愛する故に自分を制し、触れずに見守る。

ここに痛々しい程の純愛と言うべき


SMの美学があると思う。

 

彼女がショー出演を卒業して自分で人生を前に進みたいと決めたことが嬉しかった。

 

嬉しいから

「また、ショーを観においで」と

メッセージを送ろうと考えながら言葉を飲み込む。

 

いつまでもこの世界に思いを残させてはいけない。

前に進む時の重りになってしまってはいけない。

 

でも、

日常に疲れたらいつでも帰っておいで。

そう思っている。

だけど、

いつでも帰れると思わせることが

現実の苦しさに直面した時の

逃げ道になってもいけない。

 

だから沢山の言葉を飲み込み続ける。

これが私の最大限の愛。


桜が美しいと枝を手折って家に飾るより

毎年、自分の力で咲くことを祈り

遠くのどこかで春の風を感じて

健気に咲く桜を思い出すだけで幸せだと思う。


愛は何の理由も

愛したことへの見返りも必要としない。

ただ好きでいい。


その究極の形が、SMという純愛だ。

 

愛ちゃんは、

私の心の中に

いつも健気に咲く花。