そらになるこころ

緊縛師 青山夏樹のSMや緊縛に関する思いを綴るブログ。内容重めです。

縛りは誰のもの(2016 3/10)

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f:id:aoyamanatsuki:20190918110804j:imageいつのころからか(14,5年前くらいか)
好事家の秘め事だった緊縛の世界が、いつの間にか当事者以外の目を意識したものになってきているように思う。

勿論、私も縛りを商品にすることを生業としている人間だ。


もし弟子入りし修業していなければ、人に縛りを教えることも縛りを商売にすることもなかった。

芸能の世界で例えるなら、落語家が落語家の元で弟子入りし修業の段階を経ていなければプロの噺家になることが出来ないのと似ているだろう。本来は。


また、昔はメディアで縛りを披露する仕事に従事する者も少なく、自分の正体を隠すように仕事をすることがほとんどだった。(昔は女性も男性もサングラスを掛けることが多かったのもそのせいだ)

 

ところが今は、誰も彼もがプロのように振る舞うことを目指す。


大きな責任が伴う仕事だという自覚も教わらないまま、縛りの危険性も深く知ることのないまま恰好良い面だけを見て進む。

 

とても怖いことだ。


ここを乗り越えなくては緊縛の世界が文化として成熟する事は期待できないだろう。

 

また、多くの人が憧れる昭和の商業緊縛には誰もが「恥ずかしいことをやっている」意識があった。
恥ずかしいことだから限られた人たちの極上の秘め事だった。


そして、秘め事には耽じらいの美がある。

それは耽美主義にみる「美が生み出す感情を観念に昇華させる歓び」とも重なる。

 

万人が秘め事をばら撒けば、秘めたる感情の生み出す美は居場所を失くしてしまう。
秘め事の美とは、日の当たらない湿度の多い場所に生きる苔や生き物のように、影がなくては生きていけない弱く危うい生き物なのだ。

 

縛りを覚え、縛りを撮影し、ショーをやり、人に教え、人に見せる。

店や会を開いて利益を得る。
それがプロと言われるものの目指すゴールなのか、疑問に思うばかりだ。


縛りは誰のため、何の為にあるのか。

 

どうして今は縛り手と受け手だけの楽しみではいけないのだろうか。


承認欲求の強い人が多い時代、と言ってしまえば話は簡単に終わってしまう。


そんな心の欠けた寂しい人が多い時代だからこそ、寂しさを無限に生み出す楽しみ方ではなく、とことん寂しさ辛さに向き合う奥底の深い「緊縛」というコミュニケーションが力になれるのではないだろうか。

 

「ら」抜け言葉のように日本語が変わっていくのと同じく、緊縛の在り方も変わって行くのだろうかと考えた。

美しい大和言葉がなくならないように、きっと
使う人、理解する人が減ったとしても緊縛の本質的な美はなくならないだろう。

目を外に向けず、もっとお互いに向かい合いたい。


秘め事は見世物じゃない、大切に2人で共有する甘い楽しみなのだから。